2008年02月28日

A Gathering of the Tribes & Lollapalooza

「Lollapalooza」

1991年にスタートした野外ライブイベント。

現在あるアメリカの野外イベントの原型でもあるので知っておいても良さそう。

(1989〜1991年)その頃のアメリカ西海岸(特に、ベイエリア)は、グランジやインダストリアルが人気があり。毎週何処かでライブが開催されていました。

ロラプラーザは、janes addiction(ジェーンス・アディクション)の解散ツアーを沢山のアーティストと一緒に回ろう!と始まったツアーイベント。

「A Gathering of the Tribes」

ロラプラーザの前1990年にビルグラハムとイアン・アストロベリーが組んでロラプラーザに先立つイベントを開催。

san jose , los angeles のみで開催されたこのイベントはまさに野外ライブの始まりでもあります。

私は、ビル・グラハムとこのイベントを企画していた。
THE CULTのボーカルが見たくて必死にチケットを取ったのを覚えております。

イベントやライブに良く行っていたのですがそれでも・・・このチケットを入手するのはかなり困難で奥の奥の奥の奥の手を使い何とか手に入れるのでした。

イベント会場までは、車で行ったのですが。。。

かなりの混みようで、駐車場へ入るのさえも数時間待ちで入り口などはセキュリティーチェックが厳しくとっても入るのに時間が掛かったのでした。

しかし!!!!!!!

最初から飛ばしまくりでIGGY POP ,SOUND GARDEN,Public Enemy,Lenny Kravitz,Steve Jones(SEX PISTOLS)などが続き。

渋滞だった事やトイレに行きたかった事も忘れ最後までノリノリで見ていましたね〜〜



それから、1年後には遂に!

Lollapalooza の第一回目が開催!

会場には、環境保護や政治問題を若者達で受け入れようじゃないか〜
みたいなNPOのテントなどもあり。

その数年後にビースティボーイズがチベタンフリーダムコンサートをやる切欠になった野外ライブイベントがこのロラプラーザになります。

このイベントには、まさかの!ロックコンサートにヒップホップのICE−Tが参加していて・・・
まだアメリカでもHIPHOPとROCKの中の悪い時代で。。

ICE−Tの演奏が始まった瞬間にステージ前の席ががら空きになり。。とても緊張した雰囲気になっていました。

そこに何故か中国人のカンフーなども始まり色々と面白かったイベントでもあります。

イベント終盤にかけて雨が降り始め、最後から2組目のRED HOT CHILI PEPERがあまり盛り上りませんでしたが・・・
最後の最後にMINISTRYが登場し。

大雨のイベント会場が総立ちの盛り上がりで最後みんなドロドロになって帰ったのがこの野外イベントの思い出です。

野外ライブやイベントは楽しいですが中々見にいけませんね・・・

FUJIROCKなども楽しそうですが・・行けていません・・・

今年こそは、行きたいですね〜〜〜〜


IGGY POP + KATE PIERSON (B52のボーカル)

CANDY






posted by オーバルネットワーク at 20:03| 大阪 ☁| 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年02月11日

32nd America's cup

「americas cup」歴史はオリンピックよりも古く。







1851年、英国で開催された第一回万国博覧会の記念行事としてロイヤル・ヨット・スコードロン(Royal Yacht Squadron)が主催したワイト島一周レースに端を発する。このレースに米国からただ1艇参加した「アメリカ」号が優勝し、ビクトリア女王から下賜された銀製の水差し状のカップを自国に持ち帰った。その為、このカップは「アメリカ」号のカップ、すなわち"アメリカス・カップ"と呼ばれることとなった。その後「アメリカ」号のオーナー達は、「カップの保持者は、いかなる国の挑戦も受けねばならない」ということを記した贈与証書(Deed of Gift)とともに、このカップをニューヨーク・ヨットクラブ(New York Yacht Club)へ寄贈した。これに基づき1870年、第1回「アメリカス・カップ」が開催され、現在に至っている。

アメリカス・カップの本質は、贈与証書に基づくヨットクラブ間の国際親善レースである。しかし、莫大な投資、最新テクノロジーを凝縮したボートデザイン、セーラー達の神業的操船は世界最高峰のヨットレースと呼ぶにふさわしい。また使用するヨットは出場国での建造が義務付けられているため、もはや単なる親善レースに留まらない、出場国の威信を賭けた『スポーツという名の戦争』とも呼ばれている。これに対しニューヨーク・ヨットクラブは1983年の第25回大会において、自らのクラブから出場した「リバティー」号がオーストラリアの「オーストラリアII」号に敗れるまで、132年間に渡ってあらゆる国からの挑戦を退けカップを守り抜いてきた。これがアメリカスカップが文字通り"アメリカのカップ"とも称される由縁ともなっている。また、現在では参加各国の造船工学・建築工学・素材工学・流体力学・航空力学・気象学などの最先端技術や軍事からの応用技術までもが次々に投入されており、その結果として一大技術競争としての様相も持ち合わせる様になっている。

「リバティー」のスキッパーであったデニス・コナーは「カップを失った最初のアメリカ人」として米国中からの非難に晒されたが、オーストラリアのフリーマントルで開催された第26回大会(1987年)に自らのチームを率いて乗り込み、見事にカップ奪回に成功した。コナーは一転アメリカンヒーローとして凱旋し、ロナルド・レーガン大統領によってホワイトハウスに招待され、"ミスター・アメリカスカップ"と称されるようになった。アメリカスカップの歴史、及びカップ奪回を掛けたコナーとアメリカの苦闘を描いた小説としては「至高の銀杯」(全4冊)ウォリック・コリンズ著 角川文庫 1991年刊 があるが、完結編にあたる部分が邦訳されていない。またリベンジを果たしたコナーの物語は映画「ウインズ」の題材にもなった。

しかし、1995年の第29回大会にサンディエゴ・ヨットクラブからチーム・デニス・コナーを率いて出場したコナーは、ニュージーランドのロイヤル・ニュージーランド・ヨット・スコードロン(Royal New Zealand Yacht Squadron)から出場したチーム・ニュージーランドに破れ、カップは再び南半球に渡ることとなった。その結果コナーは「カップを2度失った最初のアメリカ人」という汚名を着ることとなった。ただこれについては「カップをニューヨーク・ヨットクラブに取り戻すには、一度他国にカップを渡さなければならない」という関係から(アメリカスカップのルール上、あるヨットクラブが防衛を続ける限り、同じ国の他のヨットクラブはカップを獲得することができない)、当時「カップがサンディエゴにあることを良く思わないニューヨーク・ヨットクラブがコナーに圧力をかけ、わざと負けさせた」という噂も流れた。

チーム・ニュージーランドは続く2000年の第30回大会においてイタリアのヨットクラブ・イタリアーノ(Yacht Club Italiano)から出場したプラダ・チャレンジの挑戦を退けカップ防衛に成功するが、直後にチームは分裂、スキッパーであったラッセル・クーツを始め、タクティシャン、ブラッド・バタワースら主要メンバーがスイスのチーム・アリンギに移籍してしまう。

2003年の第31回大会ではスイスのソシエテ・ノーティーク・ドゥ・ジュネーブ(Société Nautique de Genève)から出場したチーム・アリンギが圧倒的な強さでチーム・ニュージーランドを破り、カップは大会史上初めてヨーロッパ大陸に渡った。海無し国家であるスイスのチームが優勝したことも話題を呼んだ。クーツはカップ3連勝となり新たな"ミスター・アメリカスカップ"と呼ばれるに至ったが、その後チームオーナーであるエルネスト・ベルタレリと対立、アリンギを脱退する。アリンギはバタワースを新たなスキッパーとして2007年の第32回大会へ出場、エミレーツ・チーム・ニュージーランドとの接戦を制し、カップ初防衛を果たしている。
posted by オーバルネットワーク at 04:13| 大阪 ☀| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。